茶道 確立

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茶道の確立

わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至りました。
利休のわび茶は武士階層にも広まり、蒲生氏郷、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山監物、高山右近ら利休七哲と呼ばれる弟子たちを生んでいきます。
さらにはわび茶から発展し、小堀遠州、片桐石州、織田有楽ら流派をなす大名も現われました。これらの流派を現代では特に武家茶道、或いは大名茶などと呼んで区別する場合もあります。

江戸時代初期までの茶の湯人口は、主に大名・豪商などが中心のごく限られたものでした。
江戸中期に町人階級が経済的に勃興するとともに飛躍的に増加しました。
これらの町人階級を主とする新たな茶の湯参入者を迎え入れたのが、元々町方の出自である三千家を中心とする千家系の流派です。
この時、大量の門弟をまとめるために、現在では伝統芸能において一般に見られる組織形態である家元制度が確立されました。
また、表千家七代如心斎、裏千家八代又玄斎、如心斎の高弟、江戸千家初代川上不白などによって、大勢の門弟に対処するための新たな稽古方法として、七事式が考案されました。これらの努力によって茶の湯は、庄屋、名主や商人などの習い事として日本全国に広く普及していったのです。
ただ、同時に茶の湯の大衆化に拍車がかかり、遊芸化が進んでいったという弊害もありました。
「侘び・寂び」に対する理解も次第に変質し、美しい石灯籠を「完璧すぎる」とわざと打ち欠いたり、割れて接いだ茶碗を珍重するなど、大衆には理解し難い振る舞いもあって、庶民の間で「茶人」が「変人」の隠語となる事態も招きました。禅の極端化にも共通する過度の精神主義であるし、「粋な自分」を誇示する、本来の茶道とは外れた行為でもあります。

他方でこのような遊芸化の傾向に対して、本来の茶道の目的である「人をもてなす際に現れる心の美しさ」が強調されるようになります。この際に大徳寺派の臨済宗寺院が大きな役割を果たし、利休流茶道の根本とされる「和敬清寂」という標語もこの過程で生み出されました。各流派による点前の形態や茶会様式の体系化と言った様式の整備に加えて、「人をもてなす事の本質とは」と言った茶道本来の精神を見直すことによって、現在「茶道」と呼んでいる茶の湯が完成したのです。

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